素敵な部屋とは? 〜実家という記憶〜

昨日、連れ合いの実家に、うちの子どもたち含め、孫たちが7人集結して、時間を一緒にすごし、夕食を共にしてきた。


実家。
あちこちに、子ども達の書いた絵、孫たちの写真、誰かが行ったどこかの旅のお土産、子どもの時のタンス、思春期のまま置きざりにされた本、子ども達や知り合いに関する新聞の切り抜きまでが、あちこちに点在している。

月日のたった家屋は、リフォームこそされているが、記憶がぱんぱんにつまっていて、そこから巣立った子どもも、人によっては、呼吸するのが辛いほどに、濃密な過去が閉じこめられていると感じるだろう。

今雑誌などで素敵な部屋について、あれこれ掲載されている。以前からそれに違和感があった。それが、連れ合いの実家からの帰り道で少し分かった気がする。

実家・・そして、今から子ども達を見送ろうとしている、我が家のような実家候補の家。それらの素敵さ、美しさというのは、いわゆる「美」という「美」では、ないんじゃないかと思う。1枚の学校で描いた絵をとっても、子どもが一生懸命描いたその気持ち、その記憶。家に張ってもらった時の、子ども達の誇らしそうな表情。そういったものこそが、実家という家における、優先されるべき、美しさではないだろうか?

もちろん、そればかりでは、日々すぎ、少なからず成長していこうと思っている親たちにとっても窮屈に感じるかもしれないが、太陽にやけた写真や絵がそちらこちらにかかっていて、「あぁ、もうこんなに大きくなったのね、○○ちゃん、パパの小さい時の写真にそっくり!」という会話がすぐ出てくる・・それこそが、実家の「美」だと思う。目先の雑然さは、時にうるさい。しかしながら、実感の素敵な部屋というのは、いわゆる「美」と、ぴったり当たるものではないと、私は思う。濃密な記憶の箱。離れると感じる、せつない宝箱だ。