「自分は、どこまでが自分か?」

お久しぶりです。

ただならぬ雨の量に、心も体も不安定で、夏風邪なのか偏頭痛がしばらく私の頭で間借りをしています。今は、ちょっと遊びに行ったようで、このまま戻ってこなければいいのですが。

 

さて、久しぶりですのに、意味深なタイトルで失礼。

 

でも、これよくある話で、なんら珍しいことではない切り口ですが、どうも知ろうとしない方には新鮮らしいお話ですので、ひとつ。あ、原発なんかの捉え方も新鮮になるかも。

 

・・・今、私の街では、街路樹の百日紅(さるすべり)の花がとても美しく咲いています。

ツルツルの幹に、線香花火のような、誕生日のクラッカーをパーン!と弾いたような姿。木によって花の桃の色がまちまちで、その並木のグラデーションもうつくしく、花びらの形まで、フリルがはいって愛らしく、車で走る度に、ウキウキします。

 

この百日紅の木。

どこまでが、この百日紅の木なのでしょうか?

 

この木の根っこの脇は、アスファルトの道路ですが、ちょっとはずれれば、緑豊かな山々があり、水のきれいな川もあり、雨ともなれば、山から下りてくる栄養たっぷりの水を飲み込むことでしょう。根っこは、道路をすり抜けて、どこまでその手を伸ばしているのでしょうか?

 

土の中では、様々な小さな生き物たちと語らいあい、星も美しいこの街の空気をたっぷりと吸っていることでしょう。太陽もきらきらと・・夜は夜で、月の光を仰いで。。

 

 

さてさて、この私という人間。

どこまでが、この私なのでしょうか?

 

この山奥の家に引越してきて、最初蛇口の水を飲み込むのに抵抗がありました。

蛇口の水といえども、うちの奥の山々から出てきた水を簡易浄水されたもの。そんな訳で出もとから蛇口までの距離が短くてフレッシュ♪

何しろ、都心の水にははいってないような、ミネラルなのか?ともかく無機質とは真反対の飲み物で、一ヶ月ほどたって、やっと慣れました。考えてみれば、人の体が28日で入れ替わるということは、この水で私もやっとこの山の住人になれたということかもしれません。

人の体の70%が水な訳ですから、ある意味、以前の私とは別人となった訳です。

 

食べ物は、日常の野菜は、農協で買うことが多いのですが、同じ沢の集落のお父さんたちも卸している野菜も売ってます。春ともなれば、タケノコをもらい、あれをもらいこれをもらい。そこらでなっているものも食べるこの暮らし。その食べ物があって私の体は、動いています。

 

そして、空気。目の前の、ほら!あなたの目の前のその空気、あ!今吸っちゃった、その空気のことです。今、吸い込んだので、あなたになりました。

 

放射能の汚染されたということで、牛肉の話題が耐えません。

私が食べた、例えばカレーに入っていた牛肉。一ヶ月前まで、どこかの土地で牛さんだった訳で。過程が見えないから、考えないでいられますが、あの牛は、私となったということです。

牛さんが、私に変身。私が牛さんに変身してなければ、いいけど。。

 

髪の毛が、一日平均50本抜け替わるそうですが、髪の毛をゴミ箱にすてるとき、なんとなく残念な気分になります。「さっきまで、私だったのに・・・。」とね。

 

爪。爪も縁側でパチンパチンと切っていたら、蟻がみんなでやってきて、私の爪を運んでいってくれるのを見てからは、出来るだけ爪は縁側で切ることにしました。

 

もったいない的には・・・鉢で育てた木の枯葉が、鉢の外に落ちているとき、私は拾って、鉢の中の土の上におきます。これで安心。葉っぱ一枚分、木の栄養が欠けてしまう気がしてね。鉢の木には手がないから、拾えないし。

 

トイレでの出来事も同じ。堆肥が肥料になったなんて話を聞くと、ほっとします。

 

・・・なんのお話でしたっけ?

 

(話がブレブレですが、いいんです。今日に限っては、ブログを更新することに意義があるので)

 

私という生き物も、百日紅という木も、何かと縁を切るなんてことは出来ない訳です。

体の皮膚の中がわたし。皮膚の外は、わたし以外。そんな風に考えるのは、割り切って捕らえようとしているだけだと思います。安心するために。

 

私という生き物は、繋がり繋がっている。

実に曖昧で、いや、曖昧などではなく、「一つに繋がっているのだ」と考えた方が、さらに「実は一つなのだ」と考えた方が、よっぽど私には分かりやすい。

 

ちょっと大胆か?でも、ありなのだ。